自然内存在ということを折に触れ思う。自然の恵みに預かって私たちは今も生きている。しかし人類はもはや自然にとっては迷惑な闖入(ちんにゅう)者になりつつある。地球環境の汚染と破壊という文明がいや応もなく生み出してしまった問題を前に、今更花鳥風月でもあるまいという声が盛んだ。この声に何と応えたらよいか。然(しか)りでありつつ否(いな)という重層的な応えが目下の私の応えである。花鳥風月の可能性の一端を『南アルプスの四季』に見ることができる。
本書は、南アルプス市に在住する「白露」の九人の俳人による四季折りおりの自然を詠んだ俳句アンソロジーである。
三月の桑が諸手を伸ばすなり 矢崎 幸枝
春暁の嶽が深空へ目をひらく 川手 久男
「諸手を伸ばす」と三月の桑に注ぐ眼差(まなざ)し、「深空へ目をひらく」と春暁の嶽(たけ)に寄せる思い、そこには通りすがりの者の持ち得ない土地の匂(にお)いの優しさと慈しみがある。
売り声へ少年駆けて夏旺ん 浅利 昭吾
獲りかざしたる蝦蟹の鋏挙ぐ 加藤 勝
ひまはりや古き校舎の屋根低く 米山 源雄
きらきらとした夏の勢いが感じられる。昔はアイスキャンデー売りが自転車で辻(つじ)にやってきて「売り声」をあげたものだ。そんなほろびた声が昭吾の句から甦(よみがえ)る。蝦蟹(えびがに)の動きをとらえて、そこに懐かしい夏の日差しと匂いが見えてくる勝の句。源雄の句からは向日葵(ひまわり)の勢いと古びてゆくものの姿が立ち上がり、夏のしんしんとした暑さの中に過ぎ去った時間が呼び戻される。いずれの句も微小な一点から大きな広場へと出てゆく。鮮やかなものだ。
灯とともに信濃へむかふ秋の汽車 保坂 敏子
天高し死者が生者の中をゆく 同
「天高し」という凝視が、生者の中に存在している死者への思いに繋(つな)がってゆく。死者への思いがこのようにいきいきと募るのも澄明な季節のたまものなのである。
しののめの凍てにあからむ桃の枝 福田甲子雄
落葉松の林を四方に煖炉焚く 飯野 燦雨
豆打てば闇の中より父の声 斉藤 史子
しののめの寒さの中の桃の枝。それを「あからむ」と把握する甲子雄の目、否、心。一本の桃の木に対する何という親しさ。土地に根ざした詩人のみの持ちうる感受性であろう。燦雨、史子の句からは、冬の暮らしの懐かしい息づかいが感じられ、尽きぬ味わいがある。
本書を読みつつ、「詩人の夢は、自分の詩が、どこかの谷間で作られたチーズのように、土地特有のもので、しかもほかの土地で賞味されること。」というオーデンの詩を思い出した。
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さいぐさ・ひろきさん 1946年甲府市生まれ。本名・亨。歌人。東海大甲府高教頭。法政大卒。92年、兄
之さんらと歌誌「りとむ」を創刊。歌集に「朝の歌」「銀の驟雨」「みどりの揺籃」など。中巨摩郡竜王町在住。
平成15年11月29日付文化面より
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